わたしはもう全速力できない。上は見ないで前だけ見て生きていくことに決めた

生き方・働き方
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モリ(@ijumori)です。

 

今回はあまり知人にも話したことがない事を話したいと思います。

タイトル「わたしはもう全速力できない。上は見ないで前だけ見て生きていくことに決めた」にあるように、わたしはもう全速力ができません。

意識高く常に自己研鑽に励んで上を見て生きていくことができない。

そんな人間ですが、それでも少しずつでもいいから前に進むと決めて生きることにしています。

感情的に書きなぐると思うので、うまく伝わるかどうかわからないけれど、取り繕うよりもいいと判断したのでそうすることにします。

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学生時代の特異な体験

限界のその先の世界をのぞいた

陸上競技に明け暮れた学生生活。

私は中学高校と陸上競技部に所属していました。

どちらも部長を務めていました。

実はけっこう足が速かったんです。全国大会で入賞するほど。

 

高校1年生の夏の合宿である特異な体験をしました。

簡単に言うと、ランナーズハイのようなものです。

それはとても気持ちが良いものでした。

ランナーズハイとは、マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚してくる作用のことです。

わたしは短距離選手だったので正確にはランナーズハイとはいえないかもしれませんが、とてもつらくきつい練習だったにも関わらず、途中から体が軽くなり、タイムも上がり、とても気持ちが良い不思議な体験でした。

そんな体験は後にも先にも経験ありません。

「ああ、これが限界のその先の世界か」と思ったものでした。

頑張った結果、他の多くの人が経験することのない貴重な体験をしたと思いました。

 

結果が全てなことへの疑問

わたしはけっこう足が速かったので、部活の顧問から直接指導を受けることが多くありました。

しかし、高校に入ってから陸上を始めた生徒や足が速くない生徒に対して、その顧問が直接指導することはありませんでした。

私はできる限り自分の知っている技術やコツなどを同級生や後輩にも伝えるようにしていました。

高校2年生のある大会の日のこと。

高校に入ってから陸上を始めた後輩が興奮気味にわたしのところへやってきたのです。

順位は組で5位か6位くらいだったと記憶しています。

興奮気味にこう言いました。

「自己ベストが出ました!」と。

その後輩はどちらかと言うと足が遅く、自己ベストを出したといっても速いタイムではありません。

それでもうれしそうなんです。

しかも私に「ありがとうございます」と言ったのでした。

陸上競技では必ず順位が決まります。

ゴールを駆け抜けた順で1位、2位と順位がつきます。

仮に100メートルを10秒で走ろうが15秒で走ろうがゴールにたどり着いたのが1番目であれば順位は1位です。

しかし自己ベストはまた話が別物です。

相手はこれまでの自分なのですから。

タイムが0.1秒でも早くなれば自分は成長しているんだと実感できるものです。

しかし自己ベストをいくら更新しようが順位が上がるものでもありません。

自分より速い人がいれば順位は上がりません。

自己ベストを更新したと報告に来てくれた後輩は、たしか、1組8人の中で6位か7位くらいだったと思います。

それでも自己ベストを出せたことに喜び、そして一緒に練習をした私に感謝をしてくれたのです。

このときに私の中である思いが確信に変わりました。

「結果が全てではない」と。

 

私は学生時代の陸上競技で体験した2つの出来事が、良くも悪くも今後の自分を決めたのだと思っています。

社会人になってから

軍隊式研修を体験

社会人生活。

新入社員研修は軍隊式研修でした。

とにかく人格を否定され、精神はぼろぼろになる。

何をしても否定される。

しまいには自分が自分ではなくなってしまう。

 

最後の課題。

それをクリアした時、やっと人間扱いをされる。

それに対して涙を流して感謝する者もいました。

餃子の王将の研修が一時期話題になりましたが、あんな感じです。(詳しく知りたい方はググってください。)

 

しかし断言します。

あの研修にはなんの意味もない。

1ミリの成長もないただの人格破壊行為だ。

ただただ忠誠を誓わせるためだけの攻撃。

最後にちょっと認められると人はすべてを認められたかのように逆に感謝の念を抱く。

今振り返っても異常な光景です。

私も研修が終わった日は興奮していました。

 

しかしもう一度言います。

あの研修において仕事で使えるスキルは何も得ていません。

あの研修にはなんの意味もない。

 

幸いなことに、研修自体は外部委託だったので、その後の研修で軍隊式のイカれた研修を行うことはありませんでした。

 

凡事徹底に明け暮れた日々

そして私は仕事でかなりいい成績をあげることになります。

何度も言うが、あの研修のおかげではありません。

 

仕事内容は学習塾の校舎運営。

直接教えることも多少はあったが、基本的には生徒の募集、講師の指導育成、保護者対応など教室の管理運営業務が主な仕事です。

 

この仕事でいい成績をあげるというのはいかに生徒数を増やすか、そして今いる生徒を辞めさせないか。

志望校合格率100%なんてのは当然のことで、それが個人の仕事の成績には全く関係ない。

学習塾の実績としてそれを目当てに来る生徒もいるので全く関係ないとはいえないかもしれませんが、生徒数や売上が目標係数に上げられ、その目標を達成するために志望校合格率を掲げることもある。

 

しかしやはり生徒数を増やし、授業料単価を上げること、つまり売上が一番の目標であり、目的であったのは間違いない。これに対しては概ね肯定的です。

 

私は全国展開している学習塾チェーンの、とある教室を任されていたが、全国で数百ある教室の内、開校1年目で生徒数を全国20位に入るまでに伸ばしていきました。

程なくして不振校の立て直しのため別の教室へ異動し、その年の夏期講習の売上を全国2位にしました。

 

特別なことはしていない。

当たり前のことを当たり前のようにしただけです。

 

その時の私の座右の銘は「凡事徹底」。

 

そしてまた、不振校を担当することになりました。

そこでも生徒数3倍、売上5倍にまで上げる。

ここでもやったことはただ一つ。

当たり前のことを当たり前のようにしただけです。

しがらみと妬み

仕事で順調に成果を出し、顧客満足度とともに従業員の満足度も高い数字を出していました。

私の周りの人たちも仕事に充足感を覚えているし、私も充実したサラリーマン生活を送っていました。

しかしある時を境に、その穏やかだった時間に変化が訪れます。

原因は、私が異動して生徒数・売上・純利益など全てにおいて数字を上げ、万年赤字教室を短期間で黒字転換させた教室の元教室運営責任者だ。

彼は私に追い出されるかのように別の教室へ異動したあと、いわゆる閑職に追いやられていました。

なんの業務もない業務部という新設部署。

本部付けということで、各教室とは異なり日々、本部スタッフと接することに。

人は頑張っている人や自分より成果を出している人の足を引っ張りたくなるものなのでしょうか。

私が現場で数字と格闘している間に、いつのまにかあることないこと吹聴されていました。

彼は大ホラを吹いて、私を咎めていたんだそうです。

私はその時は各教室をまとめるエリアマネジャーとして各教室を回る日々でした。

各教室の様子や数値を改善すべく奔走していました。

しかしその裏で彼は、私についてのあることないことを吹きまわっていたらしい。

そのせいか、私に対する変な噂が回るようになっていました。

業務部に飛ばされた彼は、全教室に業務連絡をすることもありました。

だがその連絡が私のところへは送ってきませんでした。

そのせいで大事な会議に参加できないことが何度もあった。

ある年末。会社で忘年会があったらしい。

らしいというのは、あとから知ったから。

彼は当日、「用事もないのに会社の行事にも参加しない」と周りに言っていたんだとか。

非常にくだらないが腹立たしい。

 

出る杭は打たれる。

 

私はそこまで飛び出た杭ではなかったが、彼には相当妬まれていたことでしょう。

そしていつしか私が携わっていない教室もいくつかある中で、私のことをよく知らない人たちから少しずつ避けられていることに気づきます。

直接関わっている教室は相変わらず高水準の利益を上げている。

しかし、彼は私の預かり知らぬところで、私の人格攻撃を繰り返していました。

大切な連絡もよこさず、人格攻撃をしている彼に私は怒り以上のものを感じていた。

普段の私はとても温厚なうえユーモアがあり、いつもリーダーを任されたり人の輪の中心にいたり、人から好かれるタイプだった(自分で言うのも恥ずかしいが)。

そんな私がある時、怒りという感情を抑えられなくなった。

直接会う機会があり、特に会話することもなかったのだが、向こうからあることないことふっかけてきました。

その瞬間私は彼の胸ぐらをつかんで殴りかかろうとしていました。

この間の記憶はほとんどありません。

同僚に止められ、ふと我に返りました。

 

数ヶ月後、新プロジェクトを立ち上げる事になり、責任者に私、そして腹心の部下の二人体制。

新プロジェクトとは名ばかりで、やることといえば、例えて言うと、そこら辺に落ちてる石ころを100万円で売ってくるというようなもの。

かわいそうなことに私と一緒に頑張っていた同じ校舎の部下も同じく新規事業部に連れてこられた。

この部下は、不振校を数々立ち直らせてきた相棒である。

この部下は私が何度か校舎を異動した際に連れて行った優秀な部下だ。

相性がとても良かったし感性が合っていた。

そんな部下にその辺の石ころを100万円で売るような業務につかせてしまった。

でも私らはやった。

私自身は限界は自分で決める者ではないと思ってたし、部下は部下で、私と一緒ならできると信じて頑張ってくれていた。

しかし、結果は何も出なかった。

自分たちが今までやってきた当たり前のことを当たり前にやったところで、石ころに100万円の価値をつけることは私達にはできなかった。

そんな日々が続き、次第に給料泥棒と言われるようになった。

恨み節を言うと、私が二番目に担当した校舎は地域で一番の学習塾になり、他の塾が軒並み撤退していった。

新規で開校しても生徒募集に苦しみ1~2年で撤退していくという状況だった。

そんな無双校舎を私らはつくったのだが、そこしか塾がないので今でも生徒は勝手に集まってくる。

何もしていないとは言い過ぎだろうが、他に選択肢がないんだから何もしなくてもある程度生徒は集まってくる。

学習塾で自分の評価を上げるとことは利益を上げるということ。

つまり単純に言えば、生徒数がたくさんいる校舎を引き継げば、その後はその人の実績になるのだ。

一方私は無価値な石ころを100万円に化けさせようとしている。当然ながら売れない。

この状況を見ると私の存在価値はゼロに等しい。

共に働いてきた部下も同じだ。

存在価値はゼロだった。

ついに限界が

普通、人は自分の限界を超える経験はしていない。

私は限界のその先の世界を見たことがあった。

だから自分で限界を決めることは悪だと思っていた。

しかし、皮肉にも、そのときはもう心も体も限界に達していた。

部下も参っていたし、私の変容ぶりが病的に見えたのであろう、病院へ行くことを勧められた。

病院へ行き、診断が下った。

それは、

 

うつ病

 

という病気だ。

診察したその日に診断書をもらい、休職することとなった。

そして

結局その会社は辞めた。

頑張ればなんとかなる。

努力が足りない。

そう思って頑張ってきたが、人には限界があるんだと知った。

そして限界を超えるとこうなってしまうんだということも身を持って知ることとなった。

なんの感情もなくなった。

陳腐な表現かもしれないが、世界から色が消えていた。

今の自分

それでもいま私は生きている。

もうあのときのような気持ちにはなりたくない。

なろうとしても、もう心が、体が頑張ってくれない。

頑張れない人間になってしまった。

 

周りから見たらなんともだらしなく情けない人間に映るだろう。

でも、それがいまの私だ。

 

仕事もしているが、ミスも多いし、集中力もなくなったしまった。

これまで100できていたとしたら、今は30~40くらいだろうか。

全然仕事ができなくなった。

これがなんとも悔しいものである。

これからの自分

頑張ってみるものの、頑張れない。

感覚以上の結果を出すことができなくなってしまった今、そしてこれからのこと。

少しでも前に進むことをやめないこと。

頑張れるときは頑張ること。

頑張れないときは素直に休むこと。

自分の気持に素直になること。

自分に優しくすること。

他人と自分を比べないこと。

今日より明日がいい日であるように過ごすこと。

そして、今ここを意識すること。

今を生きること。

 

わたしはもう全速力できない。

上は見ないで前だけ見て生きていくことに決めた。

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生き方・働き方
世界を物書きで!-SEKAMONO-
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